表現者はすべからく岡本太郎に学ぶべきである、とか思ったりした。(その1)「太陽の塔」

岡本太郎記念館で、ふたつの衝撃を受ける。

大阪に生まれた僕は、幼い頃から「太陽の塔」を見上げて育った。
腹部に奇妙な顔を持つまるで怪獣のような大きな塔に怯えていたのを今も覚えている。


昨年12月。僕はとある用事で東京へ行き、ついでに岡本太郎記念館に足を運んだ。
太陽の塔に対しては幼い日の畏怖を裏返したような興味をかすかに抱いていたけれど、他の作品についてはあまり知らなかった。
だけど、僕はこの場所でふたつの衝撃を受けることになる。

「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ」

ひとつは、館内に掲示されていた太陽の塔の出生についての記事だった。
1970年に開かれた大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。
会場内は未来志向の建築物やテクノロジーで溢れかえったそうだ。
当時はちょうど学生運動がさかんで、そこかしこで「反体制」が叫ばれていた。
そんな彼らにとって万博は絶好の標的であり、そんなイベントに迎合する芸術家たちは厳しく非難された。
岡本太郎もまた、敵視された。


だが、太郎はこう言う。
「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ」
「お互いに頭を下げあって、相手も六割、こっちも六割、それで馴れ合っている。そんなものは調和じゃない。ポンポンとぶつかりあわなければならない。その結果、成り立つものが調和だ」
そして「太陽の塔が一番の“反博”だよ」と。

太陽の塔は、万博へのアンチテーゼから生まれた。

シンボルゾーンの大屋根の高さはおよそ30m。
太陽の塔の高さはおよそ70mで、設置するためには屋根に穴を開ける必要があった。
日本を代表する建築家、丹下健三が手がけ、緻密な構造計算のうえに設計されたシンボルゾーンだ。
設計のやりかえは容易なことではない。

 当然、建築家たちは頭にきて、かんかんになって怒り出す。若い建築家は「太陽の塔をつぶせ」と押し掛けてくる。大騒ぎになった。
 ところが、岡本太郎と喧々囂々やりあっているうちに、建築家たちは説得力と情熱に圧倒されて、みんなだんだんと嬉しそうな顔になってくる。岡本太郎を言い負かすことができないのだ。
芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録(岡本敏子

結局彼らは岡本太郎の要求を受け入れてしまった。
これこそが太郎の調和なのだ。



かくして、万博のシンボルとして「人類の進歩と調和」に手を広げて「NO」を示すかのような太陽の塔が建設された。
現在、万博記念公園では、万博のパビリオン群はひとつとして残っておらず、太陽の塔だけがふてぶてしくそびえ立っている。

岡本太郎」への興味のはじまり。

僕は、全力で切磋琢磨してこそ成長できると考えている。
馴れ合いながら妥協点を模索するチームでは、枯れていく一方だと。
この岡本太郎のエピソードはあまりにも強烈だけれど、迎合するのではなく説得力と情熱を持って自らの理念を押し通した彼の生き方には、深く共感した。
太陽の塔はただのへんてこな怪獣」という幼い頃からの概念をひっくり返された衝撃とともに。



そして、もうひとつの衝撃は、岡本太郎の言葉だった。

つづく