表現者はすべからく岡本太郎に学ぶべきである、とか思ったりした。(その2)「憤り」

その1のつづき。

表現と言葉とが合わさって、重くのしかかる感覚。


岡本太郎記念館で受けたもうひとつの衝撃が、壁面にところどころ印字されている言葉たちだ。
なんなんだ、これは。岡本太郎の言葉なら以前にも本でちらりと読んだことはあったが、違う。こちらに襲いかかってくるようなエネルギーがある。生半可ではないメッセージがある。作品と作品の間の壁に張り付いた言葉が、脳髄に訴えかけてくる。そして、そのすぐ横にある絵が、心に重く訴えかけてくる。

憤り、己をつらぬき、表現することこそ、最も純粋な人間の証である。
むしろ、憤りこそ人間行動の最初のモチーフだと思う。
言うべきことを言う。憤りを、生きがいとしてつき出してゆく。
抵抗の火の粉を身にかぶる。楽しいではないか。

最も印象に残った言葉のひとつ。あとで養女である岡本敏子の著書「芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録」を読んで知ることになるが、岡本太郎の言う「憤り」とは、個人の憤りではない。
人間としての憤りだ。

個人ではなく、人間全体としての憤り。

この本を読むと、太郎はさまざまな憤りを抱いていたことが読み取れる。たとえば、人間の「ここからあそこへ移動したい」という欲求を制限する切符や改札への憤り、子供の個性を無視して矯正しようとする教育者への憤り、女性に対する社会の抑圧に対する憤り、あるいは、芸術を崇め奉る芸術主義者への憤り。


岡本太郎は、人間が人間であることの誇りを侵害する社会の風潮やシステムに純粋な憤りを感じていたそうだ。そして、芸術作品にその憤りをぶつけていたのだと思う。

芸術はいつだってゆきづまっている。
ゆきづまっているからこそ、ひらける。
壁を破る言葉(岡本太郎

僕がこんなふうに考えるのは、コピーライターだからだ。僕は、コピーも社会に対して新しい価値観を発信するものだと考えている。独りよがりではない、でも自分自身の中から生まれる価値観。岡本太郎もまた、人間全体としての憤りを芸術で、言葉で発信していたのではないか。そんな風に思う。

ほんとうのクリエイティブって。

僕は「クリエイティブ」という言葉が嫌いだった。
クリエイティブってなんだ?
創造すること?
「モノ」を作り出すだけでいいのなら、誰だってできる。たとえば事務職の人だって、合理的な仕事のやり方を自分で創造すればそれは立派な「クリエイティブ」じゃないのか? 何かを生み出さない人間なんてほとんどいないのに、わざわざ「クリエイター」と呼ぶだなんてばかばかしい。
そう思っていた。


でも、ある出来事をきっかけに考えが変わった。
クリエイターというのは、単に「モノ」を作り出すから「クリエイター」なんじゃない。新しい価値観や考え方や感じ方、そういったものを生み出すから「クリエイター」なんだ。そういう意味で、岡本太郎は生粋のクリエイターじゃないかと思う。
(本人は「自分の職業は“人間”だ」と言っているが。)


僕はまだまだ岡本太郎を知らない。
とりあえずは、彼の著作を読んで、彼の本質に少しずつせまっていきたいと思う。
難しいけれど。